きっちり足に合った靴さえあれば、
じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。
そう心のどこかで思い続け、
完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
須賀敦子 「ユルスナールの靴」より
今日は立秋、暦の上では秋とはいえ厳しい暑さが続きます。
地下鉄「丸太町」から地上に上がると、真夏の太陽が照りつけます。
セミがシャーシャーと鳴く道を、昼のお弁当やらを詰め込んだ重いスーツケースを引きながら、東に向かって歩くのは、結構、こたえます。
私は夏が苦手で、食欲は激減。ほうほうのていで夏をやり過ごす、なんてことがもう何年も続いています。
起業に当たって不安なことは山ほどありましたが、体力がもつかどうかもその一つでした。
しっかり朝ごはんを食べ、最低限ながら家事を済ませ、店に向かって歩く自分に、私自身が一番驚いています。
ゆっくりながら歩を進める自分の足元を見つめ、ふと心に浮かんだのが冒頭の一節です。 イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子は、とても魅力的な文章を書く人で、大好きな作家の一人です。
これまでの私…、あれこれ模索しながらも、なにかしっくりいかないものを感じて生きてきたように思います。 わがままなだけかもしれませんが。
やっと私の足に合った靴が見つかったのかな。
まだ歩き出したばかり、先のことはわかりません。
今はただ一歩一歩、この靴で行けるところまで行ってみよう。
そんな風に思っています。
店にいる時間の方が長くなり、どうしても家のことは後回しになります。
今日は定休日、でもやっぱり、店のことで一日過ぎていきました。
辛うじて午前中、家の用事をしたのですが…。
あれあれ、拭けば取れていたはずの汚れがこびりついて取れないは、強いはずのサボテンがぐじゅぐじゅになっているは、家中がなんだか不機嫌です。
愛人宅に入り浸って、久々に本宅に帰ると、家族がみんなそっぽを向いている。
「どちらも愛しているんだよ」と言い訳にならない本音を漏らす男性の気持ちがわかるような…。
そんななか、ほったらかしにしていた鉢植えからこんな見事な花が。
少し救われました。
家事労働は世の中に全く認知されていませんが、まさに真剣勝負、隙を見せたらたちまち、やられます。
前回に続き、私の好きな茨木のり子の詩を一つ。タイトルは「廃屋」です。
人が
棲まなくなると
家は
たちまちに蚕食される
何者かの手によって
待ってました! とばかりに
つるばらは伸び放題
樹々はふてくされて いやらしく繁茂
ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ
頑丈そうにみえた木戸 ひきちぎられ
あっというまに草ぼうぼう 温気にむれ
魑魅魍魎をひきつれて
何者かの手荒く占拠する気配
戸さえなく
吹きさらしの
囲炉裏の在りかのみ それと知られる
山中の廃居
ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ
波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように
人が
家に棲む
それは絶えず何者かと
果敢に闘っていることかもしれぬ
家事労働を侮るなかれ
開店してから一ヶ月が経ちました。
少しずつ整ってきたところもありますが、大半はまだまだ模索中です。
休日もあれやこれや奔走し、休日にはなりません。起業したが最後、仕事とプライベートの切り分けは難しいのでしょう。家族でやっていると、なおさらです。
「静かなところで、一人、頭を空っぽにして、のんびりしたいなぁ~」
そんな言葉が口をつきそうに…。
弱音を吐きたくなったとき、心に浮かぶ言葉があります。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
詩人 茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」の一節です。
かかりつけの接骨院の待合室の本棚で偶然見つけ、以来、私のバイブルになりました。自分を鼓舞するために、全文、書いてみます。
ぱさぱさに乾いていく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
ぐうの音も出ません。
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