廃屋

店にいる時間の方が長くなり、どうしても家のことは後回しになります。

今日は定休日、でもやっぱり、店のことで一日過ぎていきました。

辛うじて午前中、家の用事をしたのですが…。

あれあれ、拭けば取れていたはずの汚れがこびりついて取れないは、強いはずのサボテンがぐじゅぐじゅになっているは、家中がなんだか不機嫌です。

愛人宅に入り浸って、久々に本宅に帰ると、家族がみんなそっぽを向いている。

「どちらも愛しているんだよ」と言い訳にならない本音を漏らす男性の気持ちがわかるような…。

そんななか、ほったらかしにしていた鉢植えからこんな見事な花が。

少し救われました。

 

家事労働は世の中に全く認知されていませんが、まさに真剣勝負、隙を見せたらたちまち、やられます。

前回に続き、私の好きな茨木のり子の詩を一つ。タイトルは「廃屋」です。

 

   人が

   棲まなくなると

   家は

   たちまちに蚕食される

   何者かの手によって

   待ってました! とばかりに

 

   つるばらは伸び放題

   樹々はふてくされて いやらしく繁茂

   ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ

   頑丈そうにみえた木戸 ひきちぎられ

   あっというまに草ぼうぼう 温気にむれ

   魑魅魍魎をひきつれて

   何者かの手荒く占拠する気配

 

   戸さえなく

   吹きさらしの

   囲炉裏の在りかのみ それと知られる

   山中の廃居

   ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ

   波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように

 

   人が

   家に棲む

   それは絶えず何者かと

   果敢に闘っていることかもしれぬ

 

 

家事労働を侮るなかれ

 

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 

開店してから一ヶ月が経ちました。

少しずつ整ってきたところもありますが、大半はまだまだ模索中です。

休日もあれやこれや奔走し、休日にはなりません。起業したが最後、仕事とプライベートの切り分けは難しいのでしょう。家族でやっていると、なおさらです。

「静かなところで、一人、頭を空っぽにして、のんびりしたいなぁ~」

そんな言葉が口をつきそうに…。

 

弱音を吐きたくなったとき、心に浮かぶ言葉があります。

 

   自分の感受性くらい  自分で守れ  ばかものよ

 

詩人 茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」の一節です。

かかりつけの接骨院の待合室の本棚で偶然見つけ、以来、私のバイブルになりました。自分を鼓舞するために、全文、書いてみます。

 

   ぱさぱさに乾いていく心を

   ひとのせいにはするな

   みずから水やりを怠っておいて

 

   気難しくなってきたのを

   友人のせいにはするな

   しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

   苛立つのを

   近親のせいにはするな

   なにもかも下手だったのはわたくし

 

   初心消えかかるのを

   暮らしのせいにはするな

   そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

   駄目なことの一切を

   時代のせいにはするな

   わずかに光る尊厳の放棄

 

   自分の感受性くらい

   自分で守れ

   ばかものよ

 

ぐうの音も出ません。 

 

 

はじめまして ル・クルーゼ

開店日前日になって、試食用のじゃこ山椒と塩昆布を入れる器を買い忘れていることに気づきました。幸い貸してくださる方があり、当面お借りすることに…。

 

先日、ようやくデパートに買いに行くことができました。食器売り場で探すも、ピンとくるものがありません。なにせ佃煮屋、和風を基調にと心がけていますが、ありきたりのものでは飽き足りません。

 

お鍋売り場に移って、こんな可愛い器を見つけました。ル・クルーゼのものです。

ル・クルーゼといえば、性能もデザインも優れたフランスの有名なお鍋メーカーです。憧れながらも、今まで手を出せずにいました。

店員さんに用途を聞いたところ、さすがル・クルーゼ。ココットやプリン作りに、ディップ入れに…と、お洒落な料理の名前が並びます。まさか佃煮屋の店頭で、じゃこ山椒と塩昆布を入れて置かれるとは想定されていないでしょう。

 

漆塗りのスプーンとフォークを添えてガラスのサンプルケースの上に置くと、これが意外に合うんです。お客様にご試食を勧めるたびに、可愛いフォルムを眺めてはにんまりしています。

 

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又兵衛桜

春爛漫、店の近く、裁判所まわりのしだれ桜が満開です。

今年は名所のお花見は行けそうにありませんが、こんな春もいいかなと…。

去年はどうしていたっけと考え、思い出しました。奈良県宇陀市の又兵衛桜を見に行ったんでした。

 

去年1月に、画家小泉淳作氏の展覧会が京都でありました。86歳で完成させたという奈良東大寺本坊の襖絵完成記念ということでした。満開の桜が描かれた襖絵があまりに素晴らしく、そのモデルとなったのが又兵衛桜と知り、どうしても見たくなったんです。

電車とバスに徒歩と、かなり辺鄙な場所でしたが、着いてみると、生憎つぼみは固いまま。それでも京都の観光地で愛でる桜と違い、孤高の姿に胸打たれるものがありました。枝の目立つ木に、襖絵の満開の花びらを重ね合わせて想像してみるのも一興でした。

 

氏は京都の知人から送ってもらう野菜を写生するのが常だったようですが、氏の描く野菜は驚くほど生命力に満ち溢れています。

86歳にして大仕事を終えたあとの氏の言葉。

「あとは今までと同じ、冬になれば蕪を見つめ、夏になれば茄子を見つめる生活に戻るだけである」

 

今年1月、88歳で亡くなられました。

あっぱれな人生に感服です。

 

 

仲村先生

突然ですが、どうも私は霊感が強いようです。

霊が見えるとか、金縛りにあうとかではなく、なんとなく気配を感じる、というやつです。気のせいと言われればそれまでですが…。

 

今回の起業に当たり、あまりに怖くて不安で、神様仏様にとどまらず、空といい大地といい、目に付くもの全てに手を合わせてきたように思います。

そんななか、今は亡き縁あった方の顔が浮かぶことがありました。

仲村先生もそのお一人です。

 

夫は大学時代、D大学のソフトテニス部に在籍していたのですが、仲村先生はD大学の先生であり、部の監督、そして私たちの仲人さんです。

残念ながら三年前に他界されましたが、存命中はひとかたならぬお世話になりました。三人の娘さんがおられましたが、厚かましくも私も娘の一人のような気でいたものです。

今回、D大学ソフトテニス部関係の皆様には絶大なご支援をいただいています。

私は密かに、仲村先生が空の上から号令を掛けてくださっているに違いないと確信しています。なにしろ監督ですから…。

 

先生がお元気だったら、なんて仰ったでしょう。

きっと、なにも言わず、ただ目を細めて笑っておられるんじゃないかな、そんな気がしています。

 

サクラサク

開店祝いにと本当にたくさんのお花をいただきました。

一生分、いえ、来世、来々世分…、それでもあり余るほどのお花で、ありがたいかぎりです。

生花のアレンジメントは枯れ始め、胡蝶蘭などの鉢植えのものだけになりましたが、まだまだ店内花盛りです。

なかでも苔玉の桜が、今満開で、お客様の目を惹いています。

粋な贈り物の主は、先斗町の居酒屋さんです。

夫が独立するか留まるか五分五分のとき、たまたま府民新聞で「起業家セミナー受講生募集」の記事を見つけました。無駄に終わるかもしれないと思いながらも、もしもの時に備え応募。結果、講師の先生方、40人近い受講生たちから、大きな助けをいただくことになりました。

桜の贈り主さんはこのときの仲間です。

年齢、性別、分野と様々ですが、皆一様に前向きで、ユニークで、起業に伴うリスクよりも、醍醐味を楽しんでいる様子。それぞれ心に一輪の桜のつぼみを抱いているような、夢いっぱいの人たちでした。

開店はしましたが、まだまだこれから。本当のサクラサクを目指して精進していく所存です。

 

涙のご対面

開店以来、連日、知人がだれかれと訪ねてくださっています。なかには何十年ぶりという方もあり、うれしいサプライズが続いています。

先日は、独身時代に勤務していた会社の同期が来てくれました。

玄関を入ってきたときから涙目で、花粉症かと思いきや、

「ブログを読んでいたら、らしいなって、うるうるきて…」と彼女。

私も緊張の糸がゆるみ、うるうる。

レジ下のティッシュを二枚抜き取り、二人で分け合いました。

その彼女、若くして大きな織物会社の跡取りさんと結婚。ご主人のご両親、従業員さんと、職住一緒の生活。仕事のサポートから介護まで、見事にこなしてきました。一度として愚痴めいたことを聞いたことがなく、いつ会っても笑顔をたたえていて、改めて頭が下がります。

正直なのが私の長所であり、短所でもありますが、大変なのを「大変や、大変や」と言うのも能がないなと、反省しきり。

開店までの大変だった(まだ言ってる)日々も、そろそろ思い出箱にしまって、これからは地に足着いた生活をしていきたいと思います。

今まで嘆き節を聞いてくださった皆様、ありがとうございました。