永らくの夏季休業をいただき、ありがとうございました。
久々にとれた自由な時間、私がなによりしたかったのは家の中の整理でした。せっかくの休み、大好きな旅行でもと思わないではありませんでしたが、それより、やっぱり、家の中の整理でした。(笑)
たいていの人はそうだろうと思うのですが、私もなんの根拠もなく「まぁ日本女性の平均寿命くらいまでは生きるやろう」という設定で、おおざっぱな人生設計のもと日々を暮らしています。その一方で「人はいつ死ぬかわからへん」という漠然とした不安も併せ持っています。
ただ、いろいろな人の話と照らし合わせて考えるに、私は比較的「死」を身近なこととして意識しているようです。今のすぐ先に、あるいは今のすぐ裏側に「死」があるように思えてなりません。
決して悲観的なわけではなく、だからどうということでもないのですが、ただ一つ心掛けていることがあります。「死」が不意にやって来たときに、少しでも慌て方が少なくて済むよう、日頃から身辺を整えておくことです。
大層なことではなくて、要るものはきちんと仕分けて大切に扱い、要らないものは随時処分する、まあ、そんな程度のことです。
物と心は密接に連動しているようで、物が片付くと心もスッキリし、死の準備どころか生きる気力が生まれてきます。「断捨離」なんていうのが流行っているようですが、そうした効能があるのでしょう。
せっせと心掛けてきた習慣ですが、開店準備に入るあたりから危うくなっていました。取りあえず置いた物の上に、取りあえず物を置く。その翌日はさらにまた、そんな生活がもう数か月。雑然とした室内は、雑然とした心そのもののように思え、精神衛生上よくないこと極まりない状態でした。これはもう旅先で寛ぐより、片づけた方がよほどリフレッシュになるというものです。
やり出すとキリがないのが片づけですが、くたくたになっては台無しです。心が安定し始めたところで一段落。二度とここまで溜めこむまいと心に誓い、一年の後半に向けて、また頑張っていこうと思ったことでした。
お陰様で有意義な休暇となりました。
今後ともよろしくお願いします。
ある日のこと、首からカメラを下げた青年が店頭のポスターをしげしげと眺めています。お味見だけでもと勧めると、理解不能の掛け声とともに数人の青年が集合。台湾からの観光の方のようです。
「コレハナンデスカ?」と、一人が懸命の日本語で質問と思いきや、日本人の通訳さんでした。見た目は区別がつきません。自称、勝手親善大使の私はさっそく店内にご案内。
外国人観光客の多い寺町ですが、お国によっては、ちりめんじゃこの見た目だけで「ノーサンキュー」という方も。台湾の方は違和感はないようです。
そのうちのお一人は、台湾でおにぎりの屋台をされているとのこと。私の拙い英語の説明にも興味津々です。
お味見の後はお茶のサービス、「しののめ寺町」では下御霊神社の名水でいれたお茶をご用意しています。またまた拙い英語で説明をするも、「これは神の水です」なんて怪しげな商法のうたい文句のように。
「彼らは漢字がわかりますから、その説明書きを見せたら通じますよ」と通訳さん。半信半疑で説明書きを差し出すと、「おぉ~」と一斉に納得の声が上がりました。
印籠をかざす黄門さんの気分です。
「日本茶、口に合いますかね?」と通訳さんに聞くと、
「彼らもお茶を飲む習慣がありますから大丈夫です」とのこと。
反応はビミョーでしたが、味わいながら飲み干してくださいました。
じゃこ山椒をいくつかご購入、店内外の写真をたくさん撮って、「ありがとう」と帰って行かれる後姿を見送りながら、「異文化交流やなぁ~」と一人、悦に入る私。
けれど異文化というより共通点の多かった彼ら、思えば同じアジアの仲間やん、と気づいたことでした。
ロンドンオリンピック、ずいぶん盛り上がっているようです。
選手の活躍と共に、観客席から声援を送るご家族の姿がまた感動を呼ぶんでしょうね。
スポーツ選手の親ならではの気苦労も多いでしょうが、成人を過ぎた我が子になりふり構わず声援を送れるというのは、やはり幸せなことだなぁと思います。
スポーツ選手の親でない私が、我が子になりふり構わぬ声援を送ったのは、確か小学校の運動会が最後だったのではないでしょうか。中学ともなるともう思春期の入り口、疎まれそうで自粛していたように思います。
声に出さずとも、我が子への力のこもった応援は、ときに逆効果になることもあるようです。いっそ応援なんかしない方がいいのでは、なんて思ったことも。
「しののめ寺町」は家族四人でやっています。
農業なら三ちゃん農業。
とうちゃん、かあちゃん、にいちゃん、でしたっけ???
小学校の社会で習いましたね。
漁業なら親子船、兄弟船。
なんだか演歌の世界みたいです。
かあちゃんとしては大漁旗でも振って声援を送りたいところですが、この至近距離。バッサバッサとうるさくて仕方ないことでしょう。やっぱり自粛するのが賢明です。
お子様ランチ並みの小旗を心に携え、目立たぬように時々振ってみる、なんてくらいが、ちょうどいいのかもしれません。
きっちり足に合った靴さえあれば、
じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。
そう心のどこかで思い続け、
完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
須賀敦子 「ユルスナールの靴」より
今日は立秋、暦の上では秋とはいえ厳しい暑さが続きます。
地下鉄「丸太町」から地上に上がると、真夏の太陽が照りつけます。
セミがシャーシャーと鳴く道を、昼のお弁当やらを詰め込んだ重いスーツケースを引きながら、東に向かって歩くのは、結構、こたえます。
私は夏が苦手で、食欲は激減。ほうほうのていで夏をやり過ごす、なんてことがもう何年も続いています。
起業に当たって不安なことは山ほどありましたが、体力がもつかどうかもその一つでした。
しっかり朝ごはんを食べ、最低限ながら家事を済ませ、店に向かって歩く自分に、私自身が一番驚いています。
ゆっくりながら歩を進める自分の足元を見つめ、ふと心に浮かんだのが冒頭の一節です。 イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子は、とても魅力的な文章を書く人で、大好きな作家の一人です。
これまでの私…、あれこれ模索しながらも、なにかしっくりいかないものを感じて生きてきたように思います。 わがままなだけかもしれませんが。
やっと私の足に合った靴が見つかったのかな。
まだ歩き出したばかり、先のことはわかりません。
今はただ一歩一歩、この靴で行けるところまで行ってみよう。
そんな風に思っています。
8月に入り、厳しい暑さが続いています。外を歩いている人もまばらなような。無理もありません。
せめて少しでも涼を感じていただけたらと、店先に水瓶を置きました。数年前、滋賀県信楽の陶器市で購入したものです。
たっぷりの水を張り、ホテイアオイを浮かせ、金魚を泳がせ…、といきたいところですが、金魚は無粋ながらプラスチックの作り物です。
店の中から通りを見ていると、通りかかった方が珍しそうに覗き込んでおられたりします。思惑が当たったようで嬉しいような、本物と間違われていたら申し訳ないような…。
私もついつい外に出ては、金魚は元気に泳いでいるかと覗き込んだりしています。
狭い水瓶の中で泳ぐ「なんちゃって金魚」を眺めながら、心は某老舗和菓子屋さんの立派な日本庭園の池で悠々と泳ぐ鯉を思い描いていたりして。
作り物とわかっていても、金魚の姿に憩っている自分に可笑しくなります。
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