幼い頃の記憶というのは、おぼろげなものです。そんななか、鮮明に残っている、ある日、ある場面の記憶というものがあります。
私は京都のまん中あたりで生まれました。近所に二軒のお菓子屋さんがあり、一軒は量り売りから、ちょっとした進物用まで取り揃えたお菓子屋さん。昭和30~40年代当時、一般的だったお菓子屋さんです。おじさんとおばさんのご夫婦でやっておられました。もう一軒は昔ながらの駄菓子屋さん。こちらは小母さんが一人で店番をしておられました。
親からわずかばかりのおこずかいをもらうと、友達の動向やその日の気分で、子供ながらに二軒の店を使い分けていたように思います。そんなある日のこと…。
私は幼稚園から小学校に上がったばかり。学校から帰ってきて、さて今日はどちらのお菓子屋さんに行こうかと考えています。並んだお菓子と、その日食べたいお菓子を思い浮かべながら、駄菓子屋さんの小母さんは「学校行ってきたんか?」と声をかけてくれることを思い出します。
駄菓子屋さんにしよう! そう決めると、私は駄菓子屋さんに駆け出します。
その時の心模様を、今でも手に取るように思い出すことが出来ます。記憶というものは、年数を経るほどに組み替えられているともいいます。自分流に組み替えられた記憶というものに、また意味があるように思います。
慣れない学校、毎日きっと緊張して過ごしていたはずです。下校後、ほっとして出かけた駄菓子屋さんで小母さんに掛けられた言葉は、「頑張ってきたなぁ」とも「えらいなぁ」とも聞こえたのでしょう。そんな言葉をまた聞きたくて、私は駄菓子屋さんに出かけます。よほどうれしかったのでしょう。その時のうれしさが、記憶を今に繋いでいるのでしょう。
過去は未来
駄菓子屋さんの小母さんの言葉は、さりげないようでいて、接客の極意です。店を持った今の私に、時空を超えて大切なことを伝えてくれます。
幼い日の私は、今の私よりずっと純度が高くて、感度が鋭かったように思います。あの頃うれしいと感じたこと、嫌だと感じたこと、それらの記憶は闇夜に瞬くキラ星のように、私の進む道を照らしてくれます。
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