以前のブログでも書きましたが、私の中に一人の小さな女の子がいます(ブログ私の中の女の子)。
専門的なことはよくわかりませんが、インナーチャイルドと言うのだとか。誰の心の中にもいると思うのですが、私の場合、会ったことがあるというか、なんというか…。見える、というのは珍しいことかもしれません。
もともと人から「変わっている」とよく言われる私。このブログでも、怪しげなことを書いているなぁと思うこと、たびたびです(笑)。ですが、正直がモットー。引かれるのを覚悟で、ありのままを書いてみようと思います。
女の子に初めて会ったのは、私が二十歳過ぎの頃。当時、勤めていた会社の研修が東京であり、その帰りの新幹線の中でした。車内はすいていて、二人掛けの席を一人占めで、東京駅のホームで買い求めた文庫本を読んでいました。
任務を終えた安堵感と、そのあと東京で遊んだ高揚感。ちょっと大人になったような満足感もあったでしょうか。心地いい疲労感に浸りつつ、ふとページから目を上げた時でした。
唐突に、幼い女の子が現れました。頭の中に浮かんだ映像なのでしょうが、私には「現れた」という感覚でした。
3歳くらい。短いおかっぱ頭。こちらに背を向けてしゃがみこみ、棒切れかなにかで、地面に絵を描いているようです。舗装などされていない、砂の地面。あたりの風景は見えないのですが、私が生まれた家の近く、幼い頃によく遊んでいた路地であることがわかります。
女の子は無心で一人遊びに耽っています。その姿は幼くはあるけれど、存在感が絶大で、私は近寄ることも、声を掛けることも、ましてや触れることなど出来そうにありません。顔は見えませんが、私は確信します。
その女の子は、幼い日の私…。
突然、涙が溢れました。なんの涙なのかわかりません。強いて言うなら、侵しがたいものへの、畏怖の念のような。しばらくして、女の子は消えました。
あまりに不思議な出来事でした。なにかメッセージを届けに来たのかなぁと思いながら、日々の生活のなかですっかり忘れていきました。
再び、彼女が現れたのは、さらに20年近く経った頃でしょうか。人生半ば、いろいろ思い悩む時でした。女の子はまた唐突に現れ、初めての時と同じ状況で佇んでいます。私は彼女より相当、年齢の離れた大人になっているにもかかわらず、やはり彼女の絶大な存在感に圧倒され、怖れさえ感じていました。
以来、女の子は頻繁に現れるようになります。彼女はなにがあっても弱音を吐かないし、わがままも言わない。とにかく我慢強い。決して動じることなく、いつもそこにいます。
彼女がすべてを引き受けてくれている。彼女にはとうてい敵わない…。私にとって、女の子はそういう存在でした。
変化が表れたのは、店を始めて一年くらい経った頃でしょうか。女の子は、振り返るようになり、無邪気に笑ったり、時に泣いたり。少しずつ感情をあらわにするようになりました。彼女が安心した表情でいられること。いつからか、それが私の中の指標になりました。
その彼女、今年に入った頃からでしょうか。どうしたことか、なんだかやんちゃになってきまして。思うままを口走ったり、大声で泣きわめいたり。いやはや私は手を焼くばかり。通るわがままもあれば、通らないわがままもあり。それでも泣いて叫んだあとは、気が済むらしく、またあどけない表情に戻ります。
店を始めて、たくさんの方に出会い、たくさんの経験をし、たくさん心を揺さぶられ、私の中の女の子は、本来の子供らしさを取り戻してきたのだなぁと思います。あまりに遅ればせではありますが。
女の子は、とりもなおさず、私自身…。
彼女に翻弄されながらも、決して嫌ではなくて。むしろ、もっともっとわがままを言ってしまえ。秘めてきた思いを全部、吐き出してしまえ。なんて、けしかけている私です。
年齢は一年一年重ねていくもの。過去にさかのぼって、やり直すことなど許されません。が、本当にそうでしょうか。私自身、時々、人生を逆行して生きているような気がすることがあります。あるいは、どこかの地点から生き直しをしているように思うことも。もしかしたら、人生は行きつ戻りつできるのかも。
上記の写真は、私が大好きなサラ・ムーンという女性のカメラマンの作品。今回のタイトルで、ふと思い浮かんだ写真です。それを自分のカメラで撮ってみました。
いつにも増して怪しい話にお付き合いいただき、ありがとうございました。まだまだ摩訶不思議な、私の中の女の子。これからの変化を、またご報告できたらと思います。
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