画家 堀文子さんのこと

少し前のことになりますが、仕事帰り、とあるブックカフェに立ち寄りました。

 

京都には素敵なカフェや喫茶店がたくさんありますが、なかでも京都通の知人が勧めてくれていた店で、お一人でどうぞ、という意味深なコメントも気になっていました。ちょっとクールダウンしたい気分のその日、ふと思い出して出かけたのでした。

 

とてもわかりづらい建物の一室、怪しい扉を恐る恐る開けると…。中は一変、お洒落なカフェでした。窓に向かって設えられたカウンター席に、ひとり客が数名。本を読んだり、パソコンをしたり。外の世界とは隔絶したような独特の雰囲気。とにかく静か。コメントの意味がすぐに理解できました。

 

空いた席に腰かけると、真正面にあった一冊の本に思わず手が伸びました。「堀文子の言葉 ひとりで生きる」。憧れの女性、日本画家の堀文子さんのエッセイでした。

 

堀文子さんのことを初めて知ったのは、NHKの「日曜美術館」という番組。壇ふみさんが司会をされていましたので、ずいぶん前のことです。ご本人も出演されていて、絵の美しさはもとより、そのお話のユニークさに驚いたのを記憶しています。

 

すべてにおいて、ひとところに留まるということを知らない生き方。常に未知なものを求めて、挑戦し、感動し、また挑戦し…。過酷ではないのかと思いきや、むしろ楽しくってしょうがないご様子。孤高な芸術家の顔と、愛らしい童女の顔を併せ持った、とても魅力的な方という印象でした。

 

群れない 慣れない 頼らない

 

堀文子さんのモットーです。以来、私も常々自分への戒めとしてきました。が、気づけば、長らく忘れていました。茨木のり子さん(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)や須賀敦子さん(ブログユルスナールの靴)のことは、開店後もよく思い出していたのに。

 

ページを繰ると、容赦ない厳しい言葉が並びます。研ぎ澄まされた言葉に息をのみつつも、どこかしら漂うユーモアに救われる、というのが堀文子さん流でしょうか。そうそう、これこれ、と思い出し、一気に読破しました。

 

自由は、命懸けのこと

 

自由でありたいというのは、誰しも願うことです。私もせめて心だけは自由でありたいと思います。なにものにも囚われず、あるがままでいたい。


それが、命懸けって…。そこまでの覚悟はあるか?! と喝を入れられたような。90歳を超えた童女から見れば、私などまだまだ尻が青い(笑)。

 

読み終えて本を戻すと、不思議な爽快感が。いつの間にやら、窓の外は真っ暗。小一時間、しばし異次元に迷い込んだような奇妙な感覚でした。間違いなく、私はこの一冊に呼ばれて、ここに来たんだと思いました。偶然のようで、実は必然の出来事。入店時のふさいだ心持ちから一転、心軽くなって店を出る自分に、そう実感しました。

 

思い悩むことの尽きない毎日です。同時に、まるで用意されたように必要な助けが現れる毎日でもあります。一気に解決とはいかないけれど、また進んでいこうと思える一助となるものが、私の前には必ず現れます。ひとであったり、言葉であったり…。大きな計らいが働いていることを感じずにはいられません。


そんなことをまさに体現した出来事でした。

 

堀文子さんの珠玉の言葉の数々は、また改めて紹介していきたいと思います。

 

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ストック

ストック

少し以前から「痩せたね」とよく言われるようになりました。ダイエットしているわけでなし、自分ではよくわかりません。開店当初の写真を見てみると、ほっぺたを赤く塗ったらアンパンマンか(笑)というくらい丸々としています。確かに痩せたような。

 

美容上はうれしいことです。が、店をやっていくには体が基本。時期を同じくして体力も落ちてきているような。連動して気力までもが…。これはもう喜んでいる場合ではありません。

 

思えば、店を始めて以来、落ち着いて食事をする習慣がなくなってしまったようです。朝食時、パンをかじっていると、電子レンジがチン! 座ると今度は洗濯機がピピッ! 店での昼食は言うに及ばず。やっとゆっくりできるはずの夕食も、慌ただしい準備と後片付けの合間にささっと済ませがちに。

 

摂取カロリーが消費カロリーを満たしていない。必要な栄養やエネルギーがちゃんと行きわたっていない。不足分を我が身を削って使い始めているわけで、そりゃあ、しんどいはずです。体だけじゃなく、心にも同じことが起きているんじゃないか。よくよく自分を見つめてみると…。

 

ここから変なことを書きます。

 

よくはわかりませんが、私、気配とか気とか、そういうものを感じやすい体質(?)みたいです。霊が見えたことはありません。ただ感じたことがイメージとして視覚となって表れることがよくあります。

 

5、6年ほど前になりますか、夜、いつものようにベッドに入った時のことです。突然、私の心の中に瓶が一本現れました。口が狭くて、色がついていて半透明。ちょうどワインの瓶のような。

 

その中に液体が注ぎ込まれていきます。工場で詰められるみたいに、シャーと勢いよく噴射された液体がガラスの内面を伝って底に落ちていきます。勢いからいくと、あっという間にいっぱいになりそうなものなのに、底1cmくらい溜まったばかりでいっこうに増えません。

 

瓶の中の世界と、私の住む世界では、時間の流れや量の単位がきっと違うのだろう。この調子だと瓶いっぱいになるには数か月、あるいは数年、数十年かかるかも、なんて考えながら眠りに入っていきました。

 

次の夜もベッドに入ると心の中に瓶が現れ、また液体が…。相変わらず1cmから増えません。そんな日が何日続いたでしょうか。

 

その日はうれしい日でした。偶然にも友人にまつわるものばかり。うれしい便りだったり、電話だったり、いただきものだったり。ひとつひとつはささやかですが、三つ重なったことがうれしくて、手帳に書き留めたくらいです。

 

いい気分でベッドに入ると、いつものように瓶が現れ、いつものように液体が注ぎ込まれていきます。もう見慣れた光景にうとうとした時、ゴボゴボっと聞きなれない音が。見ると瓶の底から三分の一くらいまで溜まっています。わぁ、と驚いていると、またゴボゴボっという音。見る間に三分の二に。またまたゴボゴボっといったかと思ったら、あっという間に瓶の口いっぱいまで満たされていました。

 

以来、私の心の中には瓶が一本。大切に抱えて暮らしてきました。

 

瓶はこんこんと湧き出る泉のよう。店を始めてからも、溢れんばかりのたくさんのものを放出してくれました。私のエネルギーの源です。

 

気づけば、忙しさに紛れて瓶の存在をすっかり忘れていました。久し振りに現れた瓶、中身は空っぽ…。

 

こんこんと湧き出ると思っていたのは間違いで、使ったら補うことが必要だったようです。使ってばかりで、さっぱり補充しないものだから、せっかく溜めたストックが文字通り底をついたもようです。

  

備蓄作戦開始! 

 

食事時、空腹が少し満たされると、さぁ後片付け、と立ち上がるところを、もう二口、三口食べてみる。栄養やエネルギー、私の血となれ肉となれ、私の体の隅々まで行きわたれ、なんて思いながら。

 

「ストック、ストック」呪文のように唱えます。瓶の中にまた液体が注ぎ込まれていきます。

 

欲しいと思っていたものを買ってみる。自分にご褒美「ストック、ストック」。朝の慌ただしい時間、ちょっとCDをかけてみる。心にも栄養「ストック、ストック」。観たかった映画に出かけてみる。感性にもエネルギーをチャージ「ストック、ストック」。なにをやっても「ストック、ストック」…。

 

そんなことを心掛けていると、自然と自分に意識が向くように。それだけで満たされた気分を味わえるから不思議です。

 

私の中では「私」が中心…で、いいのかも。

 

劇的な瓶との出会いから数年、私の感度もちょっと鈍ったのか、現在の中身がどれくらいか不明です。また私が油断しないように、見えなくしているのかもしれません。これからは使ったら補充を心掛け、地道に溜め続けるんだよ、って戒められているような。

 

不思議な瓶、どこからやってきたのか、どなたから授かったのかわかりませんが、これからも大切に胸に抱いて暮らしていきたいと思います。二度と中身を枯れさせることのないよう気をつけて。

 

今度お目にかかった時、「太ったね」との声掛けはご遠慮くださるようお願いします。

 

 

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私が苦手だったもの 京都

祇園祭 

苦手だったものが開店を機に苦手でなくなった…。うれしいことに、そういうものがいくつかあります。

 

ずいぶん以前のブログ私が苦手だったもの 春で、「春」を一番に取り上げました。次は「京都」と決めていたのですが、すっかり間が空いてしまいました。京都が苦手だったとカミングアウトするのは相当に勇気のいることだったようです(笑)。

 

京都で生まれ、以来ずっと京都で過ごしてきました。他府県の方には京都は憧れの街のよう。そうとわかるや、熱く語り始める方がおられます。皆さん、とにかくお詳しい。

 

私はというと、名だたる神社仏閣を挙げられても、必ずしも行ったことがあるとは限らず。むしろ行っていないことの方が多いかも。有名料亭はお高くてとうてい行けず。名物、名菓、名所…、いずれもあり過ぎて把握しきれず。「はぁ、そうですかぁ」と相づちを打つばかり。どちらが京都の人間やらわからない有様です。

 

京都に住んでいるからといって、雅なものが好みとは限りません。私はむしろ野趣味のあるものが好き。作り込まれた美より、あるがままの様に心惹かれます。例えばですが、京都の観光寺院の仏像より、滋賀の湖北にひっそりと佇む観音様が好き、てな具合です。(ブログ天狗おじいさん

 

ひとしきり京都を褒められたあと、ついてまわるのが京都の人間の気質の話です。表と裏があってなにを考えているかわからないのだとか。女性のイケズ話は必須(笑)で「お茶漬け」のたとえ話まで出てきたひにゃあ、ひっくり返りそうになります。こうした個性って、どこの都道府県でもあることちゃうんかなぁ、と心で呟きながらも、しばし気配を消すことに決めています。

 

京都って、なにやら面倒くさい…。

 

店を開き、さまざまなお客様にお越しいただくようになりました。半数近くは他府県からの方でしょうか。京都をこよなく愛し、足繁く通われる方も少なくありません。なかには京都好きが高じて移り住んでこられた方も。

 

そんなお一人、定年を前に退職し、関東から引っ越してこられた女性がご近所にいらっしゃいます。着物でお出かけになる姿をよく見かけますが、京女(きょうおんな)の風情そのもの。京都での暮らしを心から楽しみ、慈しみ、感謝しておられるご様子です。そんな暮らしぶりを伺うのが、いつからか私の楽しみになりました。

 

京都って、素晴らしい街なのかも…。

 

7月に入ると、京都の街はそこらじゅうで祇園囃子のBGMが流れ、一気にお祭ムードに包まれます。今年はいつになく、いてもたってもいられなくなり、宵々山の夜、仕事帰りに出かけていきました。雑踏にもまれながら鉾を見上げ、生の祇園囃子を聴き、厄除けの粽(ちまき)を購入。それだけのことですが、とりあえず気が済んで帰ってきた次第です。

 

京都の人間ぽくなってきたやん、私…。

 

今年の祇園祭は49年ぶりに前祭と後祭に分けての巡行となり、後祭では「大船鉾」の150年ぶりの復活が話題となりました。巡行本番を前に行われる「曳き初め」の日は、たくさんの観衆だったようです。その中には先のお客様も。

 

数分前まで雨模様だったのが直前に晴れ渡り青空に。その下、鉾が動き始めるや一斉に拍手が沸き起こったそうです。その場の感動はいかばかりだったでしょう。「150年の先人の思いね」と、目を輝かせて話してくださるのを聞きながら、私もこみ上げるものが。思わず知らず涙がこぼれました。

 

京都の先人の血が私のなかにも脈打っている。畏れ多いながら、そう感じた瞬間でした。

 

京都の空を見上げ、京都の空気を吸い、京都の食材をいただき暮らしてきた日々。街の佇まい、四方に見える山、鴨川の流れ、四季折々の風習、京言葉…。長年にわたり目にし、耳にし、口にしてきたものは、私の中に根付き、今の私を形作っているようです。

 

私にとって、京都は出かける街でなく、ずっとそこにある街やったんやぁ。

 

私は私の感性で、京都の街を味わっていこう。やっとそう思えるようになりました。

 

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