八日目の蝉

八日目の蝉

日差しの強くなった七月から、通勤は日焼けを恐れて自転車から地下鉄に変更です。丸太町の駅で地上に出ると、たちまち、けたたましい蝉の鳴き声が。空からシャーシャーと降り注ぐような大音響のなか日傘を差して歩いていると、しきりに浮かぶ言葉があります。

 

八日目の蝉

 

角田光代さんの小説です。残念ながら原作は読んでいないのですが、何年か前に映画を観ました。印象的なタイトルと共に、感慨深いストーリーが今も心に残っています。

 

不倫相手の赤ちゃんを不本意ながら堕胎した女性が、時を同じくして出産した本妻の赤ちゃんを衝動的に誘拐。自分の子どもとして育てるも、数年で発覚。本来の両親の元に戻された子どもは、なにもなかったように普通の生活に戻れるはずもなく…。

 

成長したその女の子が、通常では有り得ない経験をした自分を蝉になぞらえ、同じく不遇な環境で育った女性に語ります。七日でみんな死んでしまうなか、一人だけ八日目まで生きる蝉がいたら悲しい、と。

 

相手の女性は答えます。八日目の蝉はほかの蝉には見られなかったものが見られる。それはすごく綺麗なものかもしれない、と。

 

小説家の着眼点のおもしろさに感心せずにはいられないワンシーンです。タイトルが決まると、作品はほぼ完成したも同じ、と聞いたことがあります。これはまさにそうだったのではないかと、素人ながらに思う一冊です。

 

店を始めるまでは、毎年ひどい夏バテに悩まされていました(ブログユルスナールの靴)。早朝から聞こえてくる元気極まりない蝉の鳴き声には、苛立たしささえ覚えたものです。それが、この映画を観てからは、渾身の力で鳴き、短い命を生き切る蝉が、無性に愛おしく思えるようになりました。

 

店への道すがら聞く蝉の鳴き声に、私もずいぶん夏に強くなったものだと感心しながら、そんなことを思い出しています。

 

ほんの3年半ほど前までは「ほぼ専業主婦」だった私、開店以来の日々は、かつての生活では有り得なかった経験の連続でした。思いもよらないこと。経験してみなければわからないこと。うれしいこともありますが、ときにしんどく思うことも。

 

ふと、平穏な暮らしってどんなかな、と思うことがあります。平穏な暮らしのイメージを勝手に描きながら、うらやましく思ってもみたり。しばし妄想にふけったあと、我に返って思います。うれしいことも、しんどいこともない交ぜの、てんやわんやの人生の方が、きっとおもしろい。

 

私は八日目の蝉になりたい

 

私にしか見られない綺麗なものが、きっと見られるはず。私はそれを見てみたい。そんなことを思う八月、生きることに貪欲になってきた自分を感じるこのごろです。

 

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祇園祭

祇園祭

店を始めて増えた楽しみは山ほどありますが、その一つが祇園祭です。

 

自宅は鉾や山が建てられる四条通界隈から、地下鉄で北に5駅ほど。すぐといえばすぐなのですが、あまり出かけて行ったことがありません。というのも暑いさなか、ただならぬ雑踏です。さらに祇園祭というと街の中心部の格式高い会社やおうちの方たちのお祭り、という印象が私にはありました。どこか近寄り難いような。(ブログ私が苦手だったもの 京都

 

クライマックスの17日の山鉾巡行。それを前に縁日で賑わう宵山、宵々山。この三日間あたりがお祭りのメイン。長年、そう思っていました。

 

そんな認識が、寺町に店を構えてから一変することに。お客様の中には、鉾町にお住まいの方も多くいらっしゃいます。あるいは囃子方さんや、鉾や山の引き手さん。御神輿の担ぎ手さん。浴衣姿で厄除けの粽(ちまき)の売り子をするという小さな女の子も。

 

7月の一ヶ月を通して様々な行事があり、様々な方が関わっておられること。決して街中の一部の方だけでなく、京都各地から、あるいは他府県から、外国からと門戸が広く開けられていること。自分が随分間違った認識をしていたと気づかされることが、たくさんありました。

 

そうした皆さん、祇園祭への思い入れは強く、口々に熱く語られる、語られる。決してお祭り騒ぎのノリではなく、神事としての厳かさを湛えられていて、こちらも神妙な面持ちで聞き入ってしまいます。

 

鉾立て、曳き初め、神楽、今様、…。興味を持ってみると、毎日どこかでなにかが行われていることがわかり、それだけで心浮き立ちます。最近ではフェイスブックなどで、知人たちが各所の様子を画像や動画つきで伝えてくれるので、店に居ながらにして雰囲気を味わえるのは有り難いことです。

 

7月17日は台風の影響で大雨。山鉾の巡行が危ぶまれましたが、決行の英断。小雨になることを祈りながら、仕事の合間にテレビ中継を見ていましたが、雨は激しくなるばかり。あいにくの天候ではありましたが、むしろ京都の町衆の心意気が伝わり、いつにない感動を覚えました。

 

その夜の御神輿が練り歩く神幸祭に、今年は初めて出かけてみました。夜になっても衰えを見せない大雨。朝の雅な山鉾巡行とは打って変わり、勇壮な御神輿巡行には、そんな大雨もまた似合うようでした。

 

御神輿に神様が乗っておられ、街中を旅しながら人々の様子をご覧になるのだとか。祇園祭のクライマックスはむしろこちら。朝の山鉾巡行は、神様の来訪に先駆けてのお清めの意味があるのだと知り驚きました。


大雨の中、雑踏の中、神様、私を見つけてよ。私を見守っていてよ。心でそう祈りながら、御神輿のあとを付いて歩きました。

 

店の近く、下御霊神社のお祭りの時もそうですが、お祭りの夜にはいつも、なにかしら心が感じやすく、涙もろくなってしまいます。きっと神様が近くにいらっしゃるんだなぁ。その日も、そう思わないではいられない夜でした(ブログ下御霊神社)。

 

山鉾巡行では先頭の長刀鉾にお稚児さんが乗っておられます。就任時のインタビューで無邪気な様子を見せていた小学生が、この日はまるで別人。まさに神様の使い。神様が宿ったかと思われるほど神々しい姿に、いつも息を呑んでしまいます。上の写真は神幸祭のお稚児さんですが、こちらもまた神々しい。

 

思えば、ひとは誰もが神性というものをもって生まれてくるのではないかと思います。赤ん坊の顔はあどけないようでいて、ときに神々しい表情にハッとさせられることがあります。残念ながら、年齢を重ねるごとに忘れていってしまうようですが。

 

お祭りの日、誰もが童心に返るのは、神様が近くに来てくださることで、眠っていた神性が目を覚ますからではないでしょうか。お祭りの夜、私の魂も幼い頃の無垢な、神性を宿した女の子に返ったのだと思います。久し振りに浴衣を着てみたくなったのは、そんな女の子の願いだったかも。

 

店を始めて4度目の祇園祭。蒸し暑い夏の京都に住まう贅沢を、初めて実感した7月でした。遅ればせではありますが、これからも一年一年、祇園祭を楽しんでいきたいと思います。

 

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